四月三十日

庭の景色。一昨日だったか廊下から庭を見ていて、名の分かる植物がバラとチューリップしか見いだせず、それ以外の緑豊かな木々や草やが、とても怖く思えた。自分の家の庭に拒否されたという感じか。痴呆で名を忘れるということは、つながりが失せると同じこと、自分の世界が明らかに狭まるときを感じること、怖いのは当たり前だ。

痴呆の症状は改善せず、何か作業していて「無いもの」に気づき、その都度同じ順序で同じ場所を探して…という作業を繰り返している。切羽詰まったわけではないので、まだイライラとかまでは行かぬが、いま必要なものないと困るものが、急に出てこなくなると焦燥感からイライラしたり落ち込んだりするのでないか。

鹿児島の叔父から、お茶が届く。春の恒例で、うちからは笹団子を送り、先方からは新茶が届く。お茶のお礼の電話を入れたが、母の弟さんだ、もうじき90歳、声がとてもよぼよぼに感じだ。叔父さんには普通に母の痴呆化を伝える、どこでもある話じゃないだろうか、わたしの痴呆については伝えず、向こうも知らされても困惑するだけだろう。

清掃の仕事だってボケ老人にはできず、だから交通事故で入院して仕事辞めましたというコースは、弱点さらけ出さずでよかったのか。まあまだ分からないが。